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スタジオ用のコンデンサーマイクは、ごく小さな音から大きな音まで、広い音の幅を受け止めます。
ところが、録音機へ届くまでの増幅や変換のなかで、その幅が削られてきました。
ならば、マイクの中で最初にデジタル化すればよいのではないか。
なぜ今になって可能になったのか、何が得られるのか。
この記事は、その問いに答えます。
スタジオマイクの音はどこで削られていたのか
アナログの信号処理は、有限の精度でしか行えません。
処理を重ねるたびに誤差が積み重なり、ノイズの付加、非線形の歪み、電磁的な干渉も受けます。
一方、高品質なアナログのコンデンサーマイクは、およそ130 dBものダイナミックレンジを持ちます。
スタジオ用マイクの開発の歩みは、U 87は真空管をどう置き換えたのか、その開発記録を読むでも追っています。
ダイナミックレンジとは、ノイズと最大信号レベルの間の幅のことです。
マイクやコンバータではdBで表し、聴感に合わせた補正をかけたdB(A補正)で示すこともあります。
問題は、その幅を受け止める側の変換器でした。
当時最も進んだデルタシグマ方式のA/Dコンバータでさえ、A補正のダイナミックレンジは115から120 dBが限界でした。
デルタシグマ方式のA/Dコンバータとは、アナログ信号をデジタルへ変換する集積回路の一種です。
マイクが130 dBの幅を持っていても、変換器がそれより狭い。
ここに技術上の壁がありました。
さらに、一般的な伝送経路では、アナログのプリアンプと卓でのA/D変換が必要です。
その過程でレベルの整合とヘッドルームの確保が入り、信号品質とS/N比が劣化します。
マイクの信号は、筐体を出てからも少しずつ劣化していったのです。
どうすれば筐体内でデジタル化できるのか
この研究が目指したのは、カプセルの信号をマイクの内部で最初の段階からデジタル化することです。
レベル調整や処理をデジタルの領域で行えば、マイク信号の品質を保つ理想的な条件が得られ、アナログのプリアンプや卓でのA/D変換を省けます。
そこで提案されたのが、2本の並列した変換路を持つ新しいA/D変換方式です。
1本目の経路は24 dB(16倍)の利得のあとにA/Dコンバータを置きます。
2本目の経路は、非線形のネットワークを通して別のA/Dコンバータへ信号を送ります。
ここがこの方式の核心です。
2本目の経路で作った非線形の中間信号を、1本目のコンバータの手前で元の信号から線形に差し引き、あとでDSPの中で足し戻します。
これによって補完的な歪みが打ち消されます。
なぜこの方式を選んだのか。
従来からあったゲインステージング方式には、避けがたい難点がありました。
ゲインステージング方式とは、利得の異なる2系統の変換路を切り替えながらダイナミックレンジを広げる方式のことです。
切り替えと整合を極めて精密にしないと歪みが生じます。
また、過大入力を受けた経路ではデシメーションフィルタ(A/D変換内のフィルタ処理)が不要な情報を生み、理想的な切り替えを難しくします。
新しい方式は、こうした信号の切り替えや複雑な整合を避けるために選ばれました。
コンバータの特性は、実測で確かめます。
内部の解像度、実カプセルを使ったときのA補正ダイナミックレンジ、コンバータの入力を短絡したときのA補正ダイナミックレンジの3点です。
あわせて、デジタル出力マイクの遠隔制御と同期も扱います。
AES 42-2001とは、デジタル出力マイクの音声伝送と給電と遠隔制御を定めた規格のことです。
この規格のモード2と呼ばれる同期方法では、マスタークロックと帰還信号、そしてマイク内部のVCXO(電圧で制御する水晶発振器)を、PLL(位相同期ループ)に似た閉ループとして使います。
その結果、どれだけの性能が得られたのか
まず変換の基本特性です。
2本の変換路は、フルスケール(デジタルシステムの最大信号レベル)までクリップせずに動作し、上側のダイナミックレンジでは並列に働きます。
信号の切り替えは起きません。
コンバータの特性は次のとおりです。
デジタル化のノイズは140 dBのダイナミックレンジに相当し、そのほとんどはカプセル自身のアナログノイズに覆われます。
デジタル化の段階で加わるノイズは、マイクの音に実質的な影響を与えない水準です。
遠隔制御としては、指向性の切り替え、プリアッテネーション(入力段での減衰)、ローカットといった定番の機能に加え、0から63 dBまで1 dB刻みのデジタル利得が使えます。
この利得は、S/N比を一定に保ったまま調整できます。
フィルタもデジタルの領域で行うと、カプセルの等化やローカットをより正確に、副作用を抑えて実現できます。
過渡的な信号を抑える処理も、信号の発生源であるマイクの内部で行えます。
同期については、長いマイクケーブルでも真に安定した同期が得られ、可聴周波数域でのジッタは1 ps未満でした。
この結果はどこまで当てはまるのか
著者は、この研究の限界を明示してはいません。
そこで、測定や説明の条件から自然に読み取れる適用範囲を整理します。
対象は、デジタル出力を持つスタジオ用のコンデンサーマイクです。
コンバータ特性の評価は、実カプセルを使った状態と、コンバータの入力を短絡した状態の2条件で行われ、ダイナミックレンジはA補正の値で示されています。
同期の記述は、AES 42-2001のモード2の方式によるもので、長いマイクケーブルでの同期が前提です。
扱っている信号は、マイクのカプセルが出力する音声信号です。
したがって、ここに示された数値や機能は、この条件の範囲で述べられたものとして受け取る必要があります。
この研究をどう位置づければよいのか
この研究が向き合ったのは、マイクと変換器のあいだに生じていた性能の食い違いです。
高品質なアナログのコンデンサーマイクが130 dBのダイナミックレンジを持つのに対し、当時のデルタシグマA/Dコンバータは115から120 dBにとどまり、さらに伝送経路が信号を劣化させていました。
マイクの中でのデジタル化は、この食い違いに対するひとつの答えとして位置づけられます。
同時に、これは変換方式の細部に踏み込んだ研究でもあります。
信号の切り替えを避け、補完的な歪みを打ち消す手法、そしてデジタル出力マイクを長いケーブルでも安定して同期させる方法が示されています。
マイクの信号を、カプセルが持っている広さのままデジタルの領域へ渡すには何が必要か。
その内実を考えるうえでの土台になる内容です。
参考資料
Benefits of a Digitally Interfaced Studio Microphone、Stephan Peus・Otmar Kern、2001年、Audio Engineering Society Convention Paper 5467, 111th Convention, New York, NY, USA
原典の主張は、Benefits of a Digitally Interfaced Studio Microphoneをご参照ください。

