目次
5.1サラウンドで録音すれば、リスナーの周囲に音像を正確に描けるはず。
そう組み立ててみたのに、横や後ろの音は思った位置に定まらず、低域の広がりも消えた気がする。
この手応えのなさを解く鍵は、耳が音の方向をどう決めるかという音響心理学にあります。
この記事が答える問いは、実用的な5.1サラウンド録音のマイク技法を支える音響心理学の原理とは何か、その原理がフロント・側方・後方のファントム音像、拡散音場、低域管理のそれぞれにどう現れるのか、です。
Rumsey (2007) が示した結論は、5.1サラウンドは2チャンネルステレオの延長にすぎず、正確な音像を作れるのは主に正面に限られる、というものです。
5.1サラウンドは正確な音場を再構成できるのか
5.1サラウンドのような商用のマルチチャンネル方式は、物理的に正確な音場の再構成を目的として設計されたものではありません。
Rumsey (2007) は、これらが2チャンネルステレオとの互換性と空間の拡張との妥協の上に成り立っていると整理します。
土台になるのが、ファントム音源という考え方です。
ファントム音源とは、2つのスピーカーから出る音の時間差とレベル差によって、実際にはスピーカーの無い位置に知覚される単一の仮想音像を指します。
耳は、この少数のスピーカー間の時間差とレベル差を合算して、一つの音像位置を決めます。
この過程を合算定位と呼びます。
ステレオ録音の多くは、この合算定位に頼って音像を作っています。
音場を物理的に正確に再構成しようとする方式には、wavefield synthesis や ambisonics があります。
そうした方式は多数のスピーカーを必要とし、これまで多くの用途では実用的ではありませんでした。
低域の扱いには、5.1ならではの処理があります。
バス・マネジメント(低域管理)とは、サラウンド再生で一定周波数以下の低域をモノラルにまとめる処理のことです。
これが低域の空間的な印象をどう変えるかは、後段で触れます。
録音エンジニアが方式の強みと限界を知っていれば、良好な結果を得やすくなります。
Rumsey (2007) がこの論文を書いた動機はここにあります。
原理はどのように確かめられたのか
Rumsey (2007) のこの論文は、新しい実験を行った報告ではありません。
5.1サラウンドのステレオフォニック原理、パンニング則、マイクロフォンアレイ、低域管理に関する既存の研究と理論を、一つの論文としてレビューしたものです。
レビューの進め方はこうです。
まず5.1サラウンド方式を、バイノーラル方式や wavefield synthesis、ambisonics といった音場再構成方式と対比します。
これによって、5.1サラウンドが音場を物理的に再構成する方式ではなく、2チャンネルステレオを拡張した方式であることが浮き彫りになります。
次に、フロント・側方・後方のパンニングに関する定位曲線、マイクロフォン間のクロストーク、両耳間相互相関(IACC)、低域のデコリレーションに関する文献データを整理します。
IACCとは、両耳に入る信号の類似度を表す指標で、この類似度が低いことが拡散音場の印象と関係するとされます。
マイクロフォンアレイの検討では、マイクの間隔を大きく取る広間隔配置と、カプセルを近づける密接配置との中間として、準一致配置と呼ばれる構成が扱われます。
準一致配置とは、密接配置と広間隔配置の妥協として、比較的狭い間隔で指向性マイクロフォンを並べるアレイのことです。
アレイの選び方と音像への影響は、3Dアンビエンス録音にはどのマイクアレイが適しているのか、その研究を読むのテーマと重なります。
音像はどこで崩れ、どこで安定するのか
結果を整理すると、5.1サラウンドの音像生成は、場所によって安定性が大きく異なります。
第一に、5.1サラウンドは2チャンネルステレオの延長であり、リスナーの全周に正確な音像を作ることはできません。
有効な音像生成は主に正面のアークに限られ、高さの次元も欠けています。
これは方式の設計そのものに由来する制約です。
第二に、フロントの3チャンネル再生では、左とセンター、センターと右をそれぞれ独立したペアとして扱えば、2チャンネルと同様の原理でファントム音像を知覚できる可能性が高いとされます。
録音角の75%の範囲では、ファントム音像のシフトがほぼ線形に動きます。
第三に、側方・後方のパンによるファントム音像は不安定です。
知覚される位置がスピーカーの付近に偏り、中央付近で急に跳び、リスナー間のばらつきも大きくなります。
側方へ音像を寄せるには、チャンネル間の時間差で約0.7 ms、レベル差で約7 dBあれば足ります。
第四に、マイクロフォンアレイについては、準一致配置や比較的狭い間隔の指向性アレイが総合的に良い結果を示す傾向があります。
ただしチャンネル間のクロストークは、定位の明瞭さを下げ、音像幅を広げる副作用があります。
クロストークの大きさはアレイの構成で次のように変わります。
第五に、拡散音場の印象を作るには、4つの無相関なスピーカー信号で十分です。
音像の定位を作るパンと、包み込まれる印象を作る拡散音場は、別の仕組みとして捉えられます。
第六に、低域をモノラルにまとめるバス・マネジメントは、低域の空間的印象を低下させます。
典型的には120 Hz以下の低域がモノラルにまとめられますが、低域デコリレーションの差は50 Hzまで検出できたと報告されます。
そのためバス・マネジメントは避けるか、できるだけ低い周波数範囲に制限することを勧めています。
この結論はどこまで一般化できるのか
Rumsey (2007) 自身が述べる限界は三つあります。
一つ目は、Theile が提唱したステレオフォニック知覚の連想理論です。
この理論は広く検証されておらず、Wittek の研究を除いて、論文の時点まで十分にテストされていません。
二つ目は、Craven の高次アンビソニック・パンニング則です。
これは正面 ±45° の範囲までしかテストされておらず、5チャンネルアレイの全周についての包括的なデータがありません。
三つ目は、この論文が wavefield synthesis や ambisonics といった音場再構成方式を詳細には扱っていないことです。
あくまで対比として触れるに留まります。
この研究をどう受け止めるか
この研究は、5.1サラウンドという商用方式の成り立ちを、音響心理学の原理に照らして整理したものです。
方式の強みと限界を、個別の印象ではなく、ファントム音源や合算定位、両耳間相互相関といった原理から説明できるようにした点が、この論文の持ち味です。
録音エンジニアが自分で方式の性質を判断するための土台として位置づけられます。
また、物理的に正確な音場再構成が多くの用途で実用的でなかったという前提の上で、実用の方式を原理の側から理解する、という方向を選んだ点も見逃せません。
正確な再構成ではないと知った上で、どこが効き、どこが効かないかを見極める。
この姿勢は、サラウンド録音に限らず、録音の判断全般に通じる考え方です。
参考資料
原典の主張は、BASIC PSYCHOACOUSTICS FOR SURROUND RECORDING をご参照ください。


