目次
サラウンド収録で後方の空気感を拾うとき、メインマイクから遠くに置いた無指向性マイクと、近くで後ろ向きにした指向性マイクのどちらを選ぶか。
判断に困った経験はないでしょうか。
この記事では、距離とディレイが空間的印象とステレオイメージに与える影響を聴感実験で調べた、Mason と Rumsey による1999年の研究を解説します。
サラウンドのアンビエンス収音には、どんな課題があったのか
1990年代後半、ディスクリート方式のマルチチャンネル配信が実用化され始めていました。
それまでは2チャンネルステレオを前提にした収音技法が主流でしたが、後方にも独立したチャンネルを持つサラウンドでは、専用のマイク配置を新たに考える必要がありました。
とくに問題になったのが、後方チャンネル用のアンビエンスマイクです。
アンビエンスマイクとは、メインの収音用マイクから離れた位置に置き、会場の残響や空間の雰囲気を後方チャンネルのために収音するマイクのことを指します。
当時、Fukada らの非公式な実験では、メインアレイのすぐ近くで後方に向けた単一指向性マイクが、遠くに置いた無指向性マイクよりも良い結果を示すことが報告されていました。
しかし、その理由は心理音響学的に解明されていませんでした。
ここで鍵になるのが二つの現象です。
一つは音響クロストークです。
音響クロストークとは、前方のメインマイクに入るべき直接音が、後方チャンネル用のマイクに意図せず漏れ込む現象です。
これが起きると、前方に定位すべき音源が後方からも聞こえ、ステレオイメージが乱れます。
ステレオイメージとは、音源定位のしやすさ、前方音場の安定性と広がり、その自然さを指す評価尺度です。
もう一つは先行音効果です。
先行音効果とは、同じ音が短い時間差で二つの方向から聞こえたとき、遅れて届いた側の音を知覚的に抑圧し、先に届いた側に定位を安定させる聴覚の仕組みです。
つまり、後方マイクに直接音が漏れても、前方より一定以上遅れて届けば、先行音効果によって定位の乱れが抑えられる可能性があるわけです。
しかし、近距離の後方マイクでこの遅延をどう確保するか、また遅延が空間的印象にどう影響するかは、体系的に調べられていませんでした。
空間的印象とは、包まれ感、空気感の自然さ、音場の奥行きを指す評価尺度で、ステレオイメージと並ぶサラウンド収音の重要な評価軸です。
先行研究で使われていた主アレイの一つに ORTF方式 があります。
これは単一指向性マイク2本を 17 cm 間隔、110° の開き角で配置するニアコインシデント方式です。
サラウンドにおけるアンビエンス収音のマイク選択については、3Dアンビエンス録音にはどのマイクアレイが適しているのか、その研究を読む でも別の角度から検討されています。
距離と遅延の効果を、どうやって分離して調べたのか
Mason と Rumsey は、距離に伴って自然に生じる遅延と、電気的に付加した遅延の効果を分離するために、三つのアンビエンス収音方式を比較しました。
まず、すべての収音に共通するメインアレイとして、前方に ORTF ペアとセンターの単一指向性マイクを設置しました。
メインアレイは臨界距離(直接音と残響音のレベルが等しくなる音源からの距離)に置かれています。
アンビエンスマイクの方式は次のとおりです。
一つ目は「R」方式。
近距離に置いた後方指向性の単一指向性マイクで、遅延は加えません。
直接音が後方マイクにも入るため、音響クロストークが生じる条件です。
二つ目は「RD」方式。
R と同じマイク配置ですが、29.1 ms の電気的遅延を付加します。
この 29.1 ms という値は、10 m 離れた位置にマイクを置いたときの音の伝搬遅延に相当します。
物理的な距離による遅延と電気的な遅延の効果を比較できるように設定されました。
三つ目は「A」方式。
メインアレイの 10 m 後方に、20 cm 間隔で並べた無指向性マイクのニアコインシデントペアを置きます。
遠くに置くことで自然に遅延が生じ、かつ直接音のレベルが下がるため、音響クロストークも抑えられます。
録音した音源は、大音量の教会オルガン、聴衆のいるスタジオでの弦楽四重奏、合唱とオルガン、そして残響の多い部屋での男性の声です。
残響特性や過渡特性の異なる素材を選ぶことで、結果が素材に依存するかどうかを見極めようとしました。
とくに声は反射や遅延の影響を受けやすいため、意図的に含められています。
聴感実験には 20 名の被験者(トーンマイスターの学生)が参加しました。
ITU-R BS 1116 準拠のリスニングルームで、全チャンネル同一のスピーカーを設置し、中央の聴取位置における再生音圧は1チャンネルあたり 88 dBA に設定されています。
被験者は、後方チャンネルの信号だけが異なる方式をブラインドで聴き比べ、A-B ペア比較で評価しました。
評価尺度は二つあり、一つは空間的印象、もう一つはステレオイメージです。
いずれも連続尺度で評価し、あわせて単純な好みも回答しました。
実験方法について、著者自身がいくつかの制約を述べています。
被験者に事前の訓練や練習試行がなかったこと、教示が口頭ではなく書面で行われたこと、刺激の提示順が被験者ごとに完全にはランダム化されなかったことです。
これらは IEC 268-13 の一部に反するものであり、誤差分散を大きくした可能性があります。
方式によって、ステレオイメージと空間的印象はどう違ったのか
結果を整理すると、次のようになりました。
遅延のない近距離後方マイク(R)は、ステレオイメージの評価が RD および A の両方式より有意に低くなりました。
これは、後方マイクに入った直接音が音響クロストークを起こし、前方の定位を乱したためです。
遅延を加える(RD)とこの問題が改善され、遠距離に置く(A)のと同等のステレオイメージが得られました。
一方、空間的印象ではまったく逆の傾向が出ました。
遠距離無指向性(A)は、近距離後方マイク(R および RD)より有意に低い評価でした。
遠くに置いて直接音を減らすと、包まれ感や空気感の自然さが損なわれる方向に働きました。
総合的に最も好まれたのは、遅延付きの近距離後方マイク(RD)でした。
すべての音源を通じて空間的印象の評価が安定して高く、ステレオイメージも良好だったためです。
素材による違いも見られました。
声のように過渡的で定位の手がかりが明確な音源では、遅延がない場合の前後感の乱れがとくに大きく出ました。
一方、拡散的な教会オルガンでは、むしろ後方チャンネルへの直接音の漏れ込みが空間的印象を豊かにする効果があったと報告されています。
残響の少ない弦楽四重奏では、方式間の好みの差がもっとも明確ではありませんでした。
この結果は、どこまで一般化できるのか
著者自身が挙げている限界は次のとおりです。
第一に、被験者の選定と実験手続きに関するものです。
被験者は事前のスクリーニングや訓練を受けておらず、練習試行もありませんでした。
教示は書面で行われ、刺激の提示順も完全にはランダム化されていません。
第二に、実験条件の固有性です。
今回の結果は、特定のマイク配置(ORTF メインアレイと三つのアンビエンス方式)、特定の被験者群(トーンマイスターの学生 20 名)、特定の音源(四つのプログラム素材)に基づいています。
第三に、遅延時間とスピーカー配置について、今回の 29.1 ms という単一の値と ITU-R のラウドスピーカー配置以外の条件には一般化できないことです。
第四に、聴取位置について、中央の最適位置以外に座った聴取者にこの結果が当てはまるかは不明です。
著者はこのうえで、最適な遅延時間の決定、後方マイクの最適な物理的配置、他のサラウンド収音方式への拡張、遅延以外の信号処理変数の検討を今後の課題として挙げています。
マルチチャンネル収音の研究史に、どう位置づけられるのか
この研究は、サラウンド収音におけるアンビエンスマイクの選択を、心理音響学的な枠組みで整理した体系的な聴感実験です。
先行音効果と音響クロストークという二つの現象を軸に、距離・遅延・収音方式の関係を実験的に分離した点が、後の研究の土台として参照されてきました。
とくに、空間的印象(包まれ感)とステレオイメージ(定位の安定性)がトレードオフの関係にあることを、三方式の対比で明確に示したことの意義は小さくありません。
遠ざければ定位は安定するが包まれ感は減り、近づければ包まれ感は増すが定位が乱れる。
この構造を遅延の付加が解決するという知見は、マルチチャンネル収音の実践と研究の両面に影響を与えました。
参考資料
Russell Mason, Francis Rumsey, "An investigation of microphone techniques for ambient sound in surround sound systems," 106th AES Convention, Preprint 4912, 1999.
原典の主張は、An investigation of microphone techniques for ambient sound in surround sound systems をご参照ください。

