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スピーカーやコンサートホールの音を評価するとき、楽器そのものの音を知る出発点が要ります。
でもフルオーケストラを無響室で録った音源は、ほとんど存在しませんでした。
1988年、大阪でそれを実現した研究があります。
どんな音が得られ、何が分かったのかを解説します。
無響室で録られたオーケストラの音源は、なぜ必要だったのか
オーディオ機器やコンサートホールの音響設計を評価するには、部屋の響きが混ざっていない「素の音」が基準として欠かせません。
そうした音を録るのが無響室です。
無響室とは、壁と天井を吸音材で覆い、音の反射を極限まで抑えた部屋のことです。
音が壁に当たって跳ね返ることがないため、スピーカーや楽器から直接届く音だけを測定できます。
しかし、床だけは反射面を残す場合があり、これを半無響室と呼びます。
床を完全に吸音してしまうと、チェロのように床からの反射を前提とする楽器が本来の響きを失うためです。
研究当時、一般に入手できる無響室録音の音源は、かつて制作された室内楽の録音だけでした(Anazawa, Inokuchi & Clegg, 1988)。
この音源はダイナミックレンジが狭く、コンパクトディスク(CD)が普及しつつあった時代の評価には適しませんでした。
CDの広いダイナミックレンジと低ひずみを活かした、フルオーケストラの無響室録音が求められていたのです。
こうした音源があれば、人工的な残響と組み合わせてホールの音響をシミュレーションする用途にも使えます。
演奏会場の設計や音響機器の試験に、新しい基準を提供しようというのがこの研究の目的でした。
91人のオーケストラを、仮設の無響室でどう録ったのか
研究チームが選んだのは、本格的な無響室にオーケストラを持ち込むのではなく、オーケストラが演奏できる場所に無響室を仮設する方法でした。
大阪の美濃市民ホールの舞台上に、吸音材で囲った半無響室が仮設されました。
広さは幅14.4 m、奥行10.0 m、高さ3.5 m。
ISO 3745に定められた半無響室の要件を満たす設計です。
ISO 3745は、無響室および半無響室で音響パワーレベルを精密に測定するための条件を定めた国際規格です。
チェロなどの楽器のために、床の一部は硬い反射面のまま残されました。
無響室としての性能は、逆二乗則で検証します。
逆二乗則とは、自由音場において音源からの距離が離れるに従い音圧レベルが一定の割合で低下するという物理法則です。
部屋の中でこの法則が成り立っていれば、反射のない無響空間とみなせます。
測定の結果、この仮設室はISO 3745の許容範囲に収まることが確認されました。
演奏を担ったのは大阪フィルハーモニー交響楽団、91人の編成で、指揮は延原正彦でした。
録音されたのは、楽器編成と時代の幅を考慮して選ばれた複数の管弦楽曲の抜粋です。
マイクロフォンはB&K、Schoeps、AKG、Shureの計29本が使われ、校正された状態で設置されました。
これらは特注の32チャンネルマイクロフォンアンプを経て、三菱X-850(32チャンネルのマルチトラックデジタルテープレコーダー)に収録されています。
マイキングの手法は複数が試されました。
代表的なのはワンポイント録音とも呼ばれるシングルポイントマイキングです。
シングルポイントマイキングとは、1本のステレオマイクまたは近接配置したマイク群で、一つの位置からアンサンブル全体を収録する手法です。
具体的には、ORTF方式(単一指向性マイク2本を間隔17 cm、開き角110度で配置する準同軸ステレオ技法)やAB方式(無指向性マイク2本を間隔を空けて配置し、到達時間差でステレオ像を得る技法)、OSS方式が使われました。
さらに、シングルポイントに補助マイクを加えた方式や、多数のマイクを使うマルチマイクロフォン方式も試みられています。
ミックスダウンは2通りの方法が採られました。
通常のレベルミキシングと、マイク間の到達時間差をデジタルディレイで補正するタイムコヒーレントミキシングです。
後者は複数のマイクを使いながら位相の乱れを抑えられる利点があります。
各楽曲の演奏中には、4本の無指向性マイク(マイク5から8)の位置で最大音圧レベルが測定されました。
音圧レベルとは、音の実効的な圧力を基準値との比で対数表示したもので、単位はデシベル(dB)です。
無響室の性能と、得られた音の大きさは
仮設半無響室の逆二乗則からのずれは、すべてISO 3745の推奨許容範囲に収まりました。
録音中の最大音圧レベルは、マイク5の位置でショスタコーヴィチの交響曲第5番演奏時に110 dB SPLに達しました。
各曲のマイク5での最大音圧レベルは105 dB SPLから110 dB SPLの範囲でした。
これらの収録音源から選ばれたパッセージが、CD(品番PG-6006)としてまとめられ、技術者や音響研究者、音楽家が利用できる形で提供されました。
この録音がカバーできない範囲はどこか
著者自身が述べている限界は二つです。
一つは、この部屋が完全な無響室ではなく半無響室だったことです。
チェロなどの楽器のために床の一部が反射面として残されており、完全に反射のない条件ではありません。
もう一つは、このCDが純粋に技術資料として制作されたものであり、音楽鑑賞には向かないということです。
著者は「録音されたプログラムは、聴いて楽しめるものではない」と率直に記しています(Anazawa, Inokuchi & Clegg, 1988)。
これは、ホールの響きが演奏の不可欠な一部であることを裏付ける結果でもあります。
また、この研究が扱っているのは録音時点の機材と手法です。
測定は大阪フィルハーモニー交響楽団の特定の編成と曲目で行われ、仮設室の性能検証に使われた周波数帯域も限られています。
これらの条件から外れた用途に結果をそのまま当てはめることはできません。
この録音は音響研究のなかでどう位置づけられるか
それまで音響機器やホールの評価に使える無響室録音は、小編成の室内楽に限られていました。
そこにフルオーケストラの無響室録音が加わったことで、より実際の演奏に近い条件で試験ができるようになったというのが、この研究の第一の寄与です。
このCDは発表後、音響研究者や技術者のあいだで試験音源として長く参照されました。
楽器の直接音を知るための資料としてだけでなく、人工残響を加えてホールの音響をモデル化する研究にも使われています。
そうした広がりは、著者たちが当初から意図していた「評価のための基準音源」という目的に沿うものでした。
半無響室という制約はありつつも、当時達成できる範囲でオーケストラの直接音を捉えた試みとして、この分野の共通理解のなかに位置づいています。
参考資料
Anazawa, T., Inokuchi, K., & Clegg, A. H. (1988). An Anechoic Digital Recording of Orchestral Music. 85th AES Convention, Preprint 2733 (F-2).
原典の主張は、An Anechoic Digital Recording of Orchestral Music をご参照ください。

