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全方位の音を扱う録音では、同時に鳴っている複数の音がそれぞれどの方向から来ているのかを知りたくなることがあります。
その方向を信号から取り出す計算は、これまで複素数を使うのが一般的でした。
計算を実数だけで済ませられないのか。
この論文は、実数だけの定式化で複数の到来方向を従来の手法より正確に推定でき、多くの条件で計算時間も短いことを数値実験で示しました。
到来方向の推定はなぜ複素数に頼ってきたのか
音がどの方向から届いたかを示す向きのことを、到来方向といいます。
空間上の一点を指す単位ベクトルとして表されます。
ひとつの音源だけでなく、複数の音が同時に鳴る場面でそれぞれの到来方向を分けて取り出すのが、この研究の対象です。
音の方向を信号から推定する試みは、入力インターフェースなど録音以外の分野でも行われています(声の方向でゲームを操作できるか、音源定位をVR入力に使う研究を読む(2018年))。
音の定位は、録音と再生の文脈でも問われてきた主題です(ダミーヘッド録音は正しい音の定位を再現できるか)。
アンビソニックスとは、音場そのものを球面調和関数の係数として記録する多チャンネルの音声形式です。
個々のマイクの向きに縛られず、全方位の音を係数の並びとして持てるのが特徴です。
球面調和関数とは、球面上で定義される直交した関数の集まりで、次数と位数という指標で指定されます。
この係数から方向を推定する代表的な手法が、EB-ESPRITとEVEB-ESPRITです。
EB-ESPRITは、アンビソニックス信号の共分散行列を球面調和関数の満たす漸化式に組み込み、複数の到来方向を同時に推定します。
EVEB-ESPRITはこれを拡張したもので、複数の漸化式を併用して数値的な不安定さを避け、同時に検出できる到来方向の最大数を増やしています。
ただし、従来のEVEB-ESPRITは複素数の球面調和関数と複素数の到来方向ベクトルで定式化されていました。
実数に置き換えた先行の変種も、完全には実数化されておらず、変換行列を必要としました。
推定の精度と頑健さを左右する同時対角化の工程に着目し、この研究は実数だけで完結する形を目指します。
実数だけの推定が通用するか、どう確かめたのか
ZotterとDeppisch(2023年)が提案するREVEB-ESPRITは、実数の球面調和関数と実数の到来方向ベクトル、拡張された漸化式を使う、完全に実数だけで構成したEVEB-ESPRITです。
複素数を介さず、変換行列も挟まずに実数のまま扱えます。
推定の要になるのが、複数の行列をまとめて対角化する工程です。
方向の情報を固有値として取り出すこの工程の出来が、精度と頑健さを左右します。
この論文は、合同シューア分解と呼ばれる実数の手法を逆反復で解く形に簡略化しました。
合同シューア分解とは、複数の行列をまとめて上三角の形へ直交分解する手法で、方向を表す値が固有値として現れます。
反復の上限は100回とされました。
より一般的な合同一般化シューア分解を単一配列のREVEB-ESPRIT向けに簡略化することで、速く正確な対角化を狙っています。
検証は数値実験で行われました。
自由音場の平面波を仮定し、単位分散の方向性白色雑音を信号として、加法性の白色ガウス雑音を重ねています。
アンビソニックの最大次数は3次まで、同時に到来する方向の数は2、6、13としました。
信号対雑音比(SNR)は10 dBから50 dBの範囲です。
テストする方向は48点の球面t-design(球面上で方向が均等になるよう設計された点の集まり)から取り、それぞれに正規分布に従う2°の摂動を加えました。
条件ごとに400回のランダムな試行を繰り返しています。
計算には1.4 GHzのプロセッサと8 GBのメモリが使われました。
提案手法は、複素数のEVEB-ESPRITにアドホック対角化を組み合わせた方式、実数のEVEB-ESPRITにアドホック対角化を組み合わせた方式、実数のEVEB-ESPRITにJAPAM-5を組み合わせた方式と比べられました。
アドホック対角化は、複数の行列を個別に対角化し、全体を最も良く対角化できる固有ベクトル行列を選ぶ方法です。
JAPAM-5は、ブロック座標による合同固有値分解のアルゴリズムで、比較対象として用いられました。
評価指標は、推定した方向と真の方向との大円距離(球面上の角度差)の二乗平均平方根誤差と、平均実行時間です。
実数化で精度と速さはどう変わったのか
提案手法のREVEB-ESPRITは、試したすべての条件で最も小さい二乗平均平方根誤差を示しました。
音源数2のときは、実数のアドホック方式も同じ精度で、複素数のアドホック方式とJAPAM-5は誤差がわずかに大きくなりました。
音源数6のとき、SNRが10 dBでは提案手法の誤差は3.4°で、次に良い方式より0.8°小さくなりました。
SNRが高い領域では、すべての方式が同程度の精度になります。
音源数13のときは、すべてのSNRで提案手法が最も良い結果でした。
SNRが10 dBでは27°で次に良い方式より3.9°小さく、SNRが50 dBでは2.9°で次に近い方式より0.8°小さくなっています。
JAPAM-5は音源数13では収束せず、その条件の結果は示されていません。
計算時間は次の表のとおりです。
音源数2と6では提案手法が最も速く、音源数13では実数のアドホック方式が1.26 msで最も速く、提案手法が1.70 ms、複素数のアドホック方式が2.26 msと続きました。
JAPAM-5の平均実行時間は、音源数2で1.72 ms、音源数6で7.41 msでした。
音源数13では、複素数のアドホック方式が実数のアドホック方式より誤差が小さくなりました。
著者らはこれを、xとyの小問題がx±iyへ代数的に結合されることに起因すると述べています。
この結果はどこまで言えるのか
ZotterとDeppisch(2023年)は、この研究の限界を明示していません。
したがって、どこまでが確認されたかを判断するには、検証の条件そのものを確認する必要があります。
この結果は、自由音場の平面波を仮定した数値シミュレーションから得られたものです。
対象としたのは、最大3次のアンビソニックス信号、同時に到来する方向の数が2、6、13の場合、信号対雑音比が10 dBから50 dBの範囲です。
テスト方向は48点の球面t-designから選ばれています。
実環境の録音や残響のある空間、特定のマイク機材を対象にした結果ではありません。
したがって、実際の録音への適用がどこまで有効かは、この論文の範囲を出ます。
この研究をどう受け止めればよいのか
アンビソニックス信号から複数の到来方向を取り出す手法は、音響工学のなかでも信号処理に位置づく話題です。
従来の手法が複素数を前提としていたのに対し、実数だけで完結する定式化を示した点は、実数のアンビソニックス形式の定義に沿う形として理解できます。
同時対角化という計算上の要の工程を簡略化しつつ精度を保ったことは、この種の推定を扱う人にとってひとつの参照点になります。
一方で、この論文の検証は数値シミュレーションに限られており、実際の録音や実機での挙動は扱われていません。
この研究が示したのは、条件を揃えた数値実験の範囲で、実数化が精度と計算時間の面で有利に働くということです。
分野全体のなかでこの手法がどう位置づいていくかは、今後の検証に委ねられています。
参考資料
原典の主張は、Detecting simultaneous directions of arrival in an Ambisonic signal with REVEB-ESPRIT をご参照ください。

